コラム

令和時代の教育現場で、南方熊楠が再注目を集める理由

皆さんは、南方熊楠という人物の名前を聞いた事はあるでしょうか。

南方は熊楠、20世紀初頭、自然科学、生物学、民俗学など様々な分野で異才を放ち、世界をまたにかけ活躍しました。生涯在野の研究者として過ごしたため、その功績は評価しずらい面もあるのですが、その並外れた知性や好奇心にまつわる破天荒なエピソードの数々は、今も語り草となっています。今回はそんな南方熊楠の生涯を振り返る事で、知性とは何か、教育とは何かという事について考えていきたいと思います。

100年前、世界を駆けたとある日本人

(画像:南方熊楠記念館)

1867年、和歌山県で生まれた南方熊楠は、幼少期より才覚を発揮し、大学予備門(現・東京大学)を中退したのちに、渡米。特定の機関に属する事なく在野の研究者として世界を駆け、生物学、博物学、民俗学など幅広い分野で功績を残しました。

数多くの論文がNatureなどの権威ある科学雑誌に数多く掲載される一方で、数多くの言語に通じ、大学教育を真っ向から否定するなど、型破りなエピソードに事欠かない南方は、その並外れた知性から「不出世の巨人」、「博物学の巨星」、「歩く百貨事典」など様々な異名をとりました。柳田國男は、そんな南方熊楠を「日本人の可能性の極限」と称賛しています。

神童と呼ばれた少年時代

(画像:Tokyoartbeat)

そんな南方熊楠は幼少期から異才を放っていました。商家であった実家には反古紙が積まれており、物心つく頃には、そこに書かれていた絵や文字をむさぼり読んでいたと言われています。10歳になる事には「和漢三才図会」105巻を借り、記憶して筆写するという離れ業をやっています。この他12歳までに「本草綱目」、「諸国名所図会」、「大和本草」等も筆写するなど、その旺盛な好奇心は幼少期より際立っていました。

南方は、和歌山の中学校を卒業した後、現在の開成高校である共立学校を経て、大学予備門(現・東京大学)に入学しました。しかし、才気に溢れていた熊楠ですが、予備門での座学には全く興味を持たなかったようで、授業には出席せず、図書館でひたすら抄写したり、遺跡発掘や郊外へ出向き菌類の標本採集などに明け暮れるような生活を送っていたといいます。そのため、熊楠は落第を期に大学予備門を退学し、好奇心の赴くままに単身渡米する事となります。

欧米で知の限界に挑んだ、南方の軌跡

(画像:minakata.org)

1887年、20歳の時にアメリカに渡った南方は、サンフランシスコのパシフィック・ビジネス・カレッジやミシガン州立農学校へ入学するものの、そこでの学生生活も南方の知的好奇心は満たされる事はなく、図書館の蔵書を読みふけったり、山野を歩き植物採集に没頭するなど相変わらずの生活を送っていました。アメリカで6年間過ごしたのち、南方はイギリスへと向かいます。当時のアメリカは新興国に過ぎず、学問の面においても経済、軍事においてもイギリスが世界の覇権国でした。アメリカでも知的好奇心は満たされる事のなかった南方の渡英は、必然だったのかも知れません。

ロンドンに到着した南方は、下宿生活をしながら植物標本を整理しながら博物館や美術館に通う生活を続ける。科学雑誌ネイチャーへ寄稿した「極東の星座」が掲載されると、識者として話題を呼び、ロンドン大学事務総長フレデリック・ディキンスや、大英博物館の考古学・民族学部長のウオラストン・フランクスなどと知り合う事となります。

有名な逸話があります。ディキンスが、「竹取物語」を英訳した際に、草稿に目を通してもらおうと熊楠を呼び出したところ、熊楠は誤訳や不適切な箇所を指摘し推敲するように命じました。ロンドン大学事務総長であり、日本語と日本文化に関する知識に関して自負を持っていたディキンスは30歳年下の南方の不行儀な振る舞いに対して激高。

しかし、南方も負けじと「権威に媚び、明らかな間違いを不問にしてまで阿諛追従するものなど日本にはいない」と怒鳴り返し応戦します。その場は決別する事になりますが、後日、内省したディキンズは、学問の徒としての南方の主張に得心して和解。その後、南方を終生の友人として扱いました。

南方がロンドン滞在時に筆写したノートは52冊に上り「ロンドン抜書」として、いまも和歌山の南方熊楠記念館に保存されています。英語、フランス語、ラテン語など様々な言語でみっしりと埋め尽くされたノートからは彼の執念にも似た情熱が伝わってきます。

その驚異的な博識ぶりから大英博物館の館員になるよう勧められた事もありましたが、自由の身である方がよいと、なんとも南方らしい言い回しで断っています。とはいえ、書籍目録の作成や貯蔵品の考証、管理などを手伝ったりと、その後も大英博物館の職員とは良好な関係を保っていた事が彼の手記からもわかります。20世紀初頭、まだアジア人蔑視が公然とまかり通る英国にて、衝突を繰り返しながらも学問を通じて知識人との親交を結んでいった南方は、やはり偉大なる先駆者だと言えるでしょう。

中国革命の父と言われる孫文との出会いも大英博物館でした。両者はすぐに意気投合し、毎日のように時が経つのも忘れて語り合ったといいます。当時の日記からも西洋列強が世界を掌握する時代に、同じアジア人として、これからのアジアの在り方について懸命に模索していた事が伺えます。南方の帰国後も、亡命中の孫文がわざわざ和歌山まで南方を訪ねるほどの仲でした。

東洋から来た識者としてロンドンでも評価を得た南方でしたが、もっぱら金には無頓着で、知人の宅に厄介になったり、途絶えがちな仕送りで生活を繋ぐなどと生涯を通じて、困窮した生活が続きました。8年間過ごしたイギリスでの生活も結局、生活資金が底をつき、結局帰国の途につく事となります。

帰国後、日本の知識人たちに、神童がもたらしたもの

帰国後も植物や粘菌の採集・研究に精を指す南方ですが、自然科学的な論文以外にも、様々な学者や知識人と交流を持つようになります。南方は民俗学に関する論考も数多く執筆しており、柳田國男とも親交があり、柳田が民俗学を体系化する際に大きな影響を与えたと言われています。

また、1929年、生物学に熱心だった昭和天皇にご進講をする機会を得ます。学位もない者の進講は前例がない事であり、南方はたちまち渦中の人となります。在野の人として生きた南方でしたが、ご進講の機会を得た事はさぞ嬉しかったようで、陛下に対して失礼な振る舞いをしないかと心配していた侍従は、当日フロックコートに身を包でで現れた南方の紳士ぶりにあっけにとられて以下のように回想しています。

「かねて、奇人・変人と聞いていたので、ご相手ぶりもいかがと案ずる向もあったが、それは全く杞憂で、礼儀正しく、態度も慇懃であり、さすが外国生活もして来られたジェントルマンであり、また日本人らしく皇室に対する敬虔の念ももっておられた」

学者としての南方熊楠の実績と評価

しかし、そんな南方熊楠の実績には過大評価も過小評価も付きまといます。生涯で膨大な量の粘菌や植物標本を収集しており、70種の新種菌類を発見した南方ですが、自然科学論文として然るべきフォーマットに則り出版された論文は少なく、新種の菌類を発見しても新種登録の手続きを行わなかったりといった事も多く、彼の業績を定量的に評価する事が難しいためです。

彼に会った人物でその能力を疑う声は皆無であり、数々のエピソードを残した南方ですが、学者としての実績が現在語られる事が殊の外少ないのにはこういった理由があります。

とはいえ、渋沢敬三により南方熊楠顕彰事業が開始され、南方熊楠全集が発行され、娘婿により南方熊楠記念館が開館されるなど、彼の死後、関係者たちの尽力により数奇な人生を歩んだ異才の功績は今も脈々と伝えられています。1941年12月、太平洋戦争が拡大の一途をたどるころ「天井に紫の花が咲いている」という言葉を最後に残し、南方はその波乱に満ちた生涯を閉じました。

後年、昭和天皇が神島を訪れた際に在りし日の南方を想い忍び以下の句を詠んでいます。

「雨にけぶる神島を見て、紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」

まとめ

さて今回は20世紀の知の巨人南方熊楠について、紹介しました。

前述したように、形式に則った形での論文が少ないために、その功績の評価に関しては定まりにくい南方ですが、知的好奇心の赴くままに世界を駆けた南方熊楠からは「そもそも学問とは何か」、「教育とは何か」、「学問とは手段か、目的か」といった多くの示唆が得られます。

従来の教育制度をむやみに否定するつもりはありません。特に若いうちは大量の知識を詰め込む事は非常に重要であり、大量のインプットなくして良質なアウトプットは起こりえません。

しかし、これからの教育を考える上で、南方が前世紀に示した「知的好奇心に基づいた学習体験」の重要性な論点といえるでしょう。